第1021回 御神幸祭(裸坊祭)
御神幸祭(裸坊祭)
令和6年11月23日(土)
御発輦・・・午後6時~
御帰還・・・午後9時頃
菅原道真公は「無実の罪」により失意のうちに太宰府で薨去されました。防府天満宮の御神幸祭は太宰府よりここ防府に遷り留まられた道真公のお御霊に、毎年毎年「無実の知らせ」をお伝えし御心をお慰めするため、縁深い勝間の浦まで渡御する壮大なお祭りなのです。そのお祭りの起源を辿ると防府天満宮の創建にさかのぼります。
~松崎の社の創建~
菅原道真公は右大臣であった昌泰四年(901)左大臣藤原時平の讒言により、太宰権帥に左遷させられました。その西下の途中、時の周防国司で同族の土師氏を頼り、本州最後の寄港地として当地勝間の浦に御着船され、「此の地未だ帝土を離れず 願わくば居をこの所に占めん」(松崎天神縁起絵巻第六巻)この港を出発すればいよいよ九州であるが、この周防の地は天皇のいらっしゃる京の都とまだ地続きである。願わくばここ松崎の地に住まいを構え天皇からの「無実の知らせ」を待っていたい と願われました。
薨去された延喜三年(903)2月25日勝間の浦に神光が現れ、酒垂山に瑞雲が棚引き人々を驚かせました。国司を始め里人たちは道真公のお御霊が光となり雲となって此の地に帰って来られたと悟り、翌延喜四年(904)国司は道真公の願われた通り、此の所松崎の地にお御霊の居(住まい)を建立して松崎の社と号しました。防府天満宮の創建です。
~御神幸祭の創始~
以来、国司や里の者たちはひたすら社を護り続けました。都では道真公に対し左遷の詔の破棄、さらには正一位太政大臣が贈られましたが、防府の道真公のお御霊に直接の「無実の知らせ」はなく、道真公のお心が晴れることはありませんでした。ところが漸く創建百年に当たる寛弘元年(1004)10月15日、一条天皇の勅使が防府に使わされ勅使降祭(お御霊を慰める祭典)が斎行され、初めて天皇から「無実の罪」が奏上されたのでありました。このことを待ち続けられた道真公のお御霊はどれだけ安堵されたことでありましょう。
御神幸祭はこの勅使降祭を起源とし、その時以来「無実の知らせ」を伝えるお祭りとして連綿と受け継がれ、防府の天神様にとって崇敬の源となる最も重要なお祭りとなりました。
防府天満宮御神幸祭のライブ配信動画等、防府観光コンベンション協会YouTubeチャンネルはこちらです
~御神幸祭 奉仕者募集中~
お申込み書の送付を希望される方はこちらのページから【裸坊奉仕希望】とお申込み下さい。
御神幸祭 ~裸坊奉仕者へお願い~
◎伝統ある郷土の祭りに誇りをもって参加しましょう
・午後5時までに回廊内に集結を
俵神輿の奉納は必ず五時までに済ませ、回廊内に集結して下さい。午後5時30分からは大石段の規制がかかります。回廊内を白装束の裸坊で埋め尽くし「兄弟わっしょい」の掛け声と共に御発輦を待ちます。午後六時の号砲花火と同時に御扉が開扉され、殿内に裸坊がなだれ込みます。興奮も頂点に達し最も緊張する瞬間です。怪我の無いように十分注意して下さい。
・笛の音の自粛を
昔の裸坊は「わっしょい」の掛け声だけで、裸坊全体の「わっしょい」の声が重なって大音声になると〔ショ!]の音が実に荘厳に聞こえていたものです。お網代で「号令をかける人だけの笛」だったのが今では殆どの裸坊が笛を吹いて祭りという感じがしません。ご発輦後の笛は出来る限り自粛をお願いします。
・奉仕にあたっての注意事項
裸坊は白半ズボンに上半身裸か、晒の白装束で奉仕して下さい。
掛声は「兄弟わっしょい!」とし、仲間意識を強め責任者の指示に従い、喧嘩やケガ等がないよう充分注意して、事故のないようお願いします。
・お帰りの素晴らしさをもっとPRして下さい
御発輦もさることながら御帰還の時に、大石段を文字通り手綱で駆け昇る御網代の姿は、実に感動的で荘厳です。
ぜひ参拝者は勿論、市民の方々にも知っていただきたくPRをお願いします。
~御神幸祭のために行われる諸神事~
大・小行司お籤上げ神事(9月上旬)御神幸祭に奉仕する大行司役・小行司役を神前で神籤により定める。選ばれたその年の大・小行司役は、諸神事が終わるまで生活の清浄化を厳しく要求される。 | 御分霊奉送式(9月中旬)お籤上げ神事により決定した大行司役・小行司役の自宅へお神霊の御分霊と御当文(差定状)を奉送する祭。 | 花神子社参式(10月第二日曜日)大行司役・小行司役が新穀をもって醸造した神酒を天満宮の神前に花神子によって奉献せしめ、御神幸祭が滞りなく無事に奉仕出来るよう祈願する神事である。中秋の防府の目抜通りを花神子が長持、奴、花駕籠、局等乗馬や徒歩のお供の者、総勢五百人の豪華絢爛な行列を組んで社参絵巻を繰り広げる。 |
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おはけ(大祭前8日)馬場先参道に大旗幟が立ち、社殿以下鳥居に至るまで新しい斎竹に注連縄が張られる。この日から隔番で大・小行司役の夜々詣りが始まる。 | 大・小行司役夜々詣り(大祭前8日より)四夜ずつ八日間、大行司役・小行司役が隔番でお供人約五十名とともに社参し、来る大祭に「過つ事なく御供仕え奉らしめ給い」と、御神前にお祈りする祭である。 | 清祓(大祭の前々日)夕刻より社殿、御網代輿、御神輿、祭具、祭器等、大祭に係わる一切のものが祓い清められる。 |
前夜祭(大祭前日)夕陽の降りる頃、全神職参列のもとに前夜祭が厳かに斎行される。 | 当日祭(11月第四土曜日)早暁、役員参列のもとに御神幸祭当日祭が斎行される。 | 大・小行司お宮入り(大祭当日)大行司役・小行司役が本陣にて最後の無事奉仕祈願を行い、その後加勢の人々多数を従えて防府の目抜通りを天満宮へ社参する。 |
御神幸祭(御発輦祭から御還幸祭まで)御発輦祭 浄闇の殿内で、神職に承仕と大祭に供奉する御警固役さらに裃姿に威儀を正した天満宮役員参列のもと、御神輿、御網代輿へお神霊の奉遷が行われる。 | 御発輦午後6時拝殿正面の扉が開かれるや、数百人の裸坊が一斎に拝殿になだれ込む。「兄弟ワッショイ」の掛声に加え人いきれと体温で殿内は熱気をおびてくる。先頭神輿、第二神輿と次々に昇ぎ出される神輿を多くの裸坊が取り囲む。次いで地響を立てながら、重さ500㎏の御網代輿が拝殿の階段を下り、参拝者の見守るなか、楼門を経て58段の大石段を滑り降りる。喚声と怒号、約五千人の裸坊が乱舞する様は壮絶の一語に尽きる。大石段を無事に降りた御網代輿は金鳥居前で台車に仕立てられ、御神幸の行列に加わる。警固町を経て天満宮より約2,5㎞はなれた勝間浦のお旅所(浜殿)に到着する。 | 浜殿神事勅使降祭の故事にならい「無実の罪」を奏上し道真公のお神霊を慰める。御神威の若返りの時である。その後、神事奉仕者には浜殿奉行の手により甘酒による接待が行われる。 |
御還幸祭浜殿神事終了後、行列は車塚町から天神町を経て午後9時過ぎに御帰還になる。ただちに御還幸祭が執り行われ瑞々しく若返ったお神霊を御神座にお遷しする。 | 網代くぐり(御還幸祭直後より翌日の午後8時まで)御神幸祭を終えたばかりの御網代輿は回廊内に奉安される。ご参拝の方々はその下をくぐることにより天神様のご加護がいただける。 | 報賽祭(大祭の翌日)御神幸祭が無事に斎行出来たことを祝すとともに氏子崇敬者の方に対する感謝の祈念を御神前に報告する。 |
天神おんな神輿奉納(大祭の翌日)土曜日の裸坊に対し、日曜日のおんな神輿は、県下から約200名の女性が集結し、神輿二基とお囃子車一台に加え、大団扇や華紙垂がはやし立てて、盛大に神輿振りを行い市内を練り歩く。お祭りの総仕上げといえる。 | 大・小行司神上式(大祭の翌日)大・小行司役が御分霊式以来、御神幸祭に至るまで無事奉仕出来たことを御神前に報告し、御分霊を御殿にお返しする。併せて神衣返納の儀式を行って、御神幸祭神事の総てが終わるのである。 |
御神幸祭の渡御は供奉する多くの祭典所役と裸坊と呼ばれる一般奉仕者により構成されています
大行司役・小行司役のこと
大行司役と小行司役は御神幸祭を始め係わる諸神事の無事斎行を祈る最高責任者です。
道真公が太宰府への西下の途中、国司を頼り当地勝間の浦にご着船された折に、国司と共に道真公の送迎をもてなした国庁の官吏の末裔といわれる藤井家が大行司役、同じく清水家が小行司役を奉仕しています。
裸坊のこと
御神幸祭は創始以来大行司・小行司や限られた家柄の者だけに渡御の奉仕が許されましたが、江戸時代後期には天神信仰の高まりと共に一般民衆も奉仕を熱望するようになり、身の潔白を示すことにより供奉が許されました。そこで民衆は潔白の証として佐波川で水垢離をとったままの姿で奉仕しましたので、その姿から裸坊と呼ばれるようになり、御神幸祭のことを裸坊祭とも称するようになりました。現在は約五千人の裸坊が白装束にて奉仕しています。
~御神幸祭 特別御朱印頒布~
日時:令和6年11月23日(土)8時~21時頃
11月24日(日)8時~20時
場所:御守り頒布所
初穂料:700円
※紙の御朱印で頒布させて頂きます。あらかじめご了承ください。
尚、通常の御朱印も御朱印帳にお書き致します。
※画像はあくまで御朱印のイメージです。